ぽるかの日記

ひとりごとです。

皆勤賞は褒めて然るべき

オリンピック開会式を見た。色々あるけど、純粋に楽しみだし、期待をしている。

 

開会式前、ニュースでの、日テレの藤井アナの言葉。

「せっかくやるなら応援しましょう、と言うつもりはありません。ただ、この大会に、純粋な思いを、努力を注ぎ込んできた人たちがいます。その方たちへのリスペクトだけは忘れたくありません。」

本当にいつもいいことを言ってくれるなあ、と感動し、信頼が深まった。言葉にはその人の人間性が表れる。私は藤井アナの人間性を大いに信頼している。

 

私が感動したポイントは2つ。

1つ目は、賛成派、反対派という分離された立場にいないこと。また、このような分離を煽っていないこと。

とても私的な言葉を並べているようで、実は、そこには思想や私情が介入していないという事が、ニュースキャスターとしてのスタンスとして素晴らしいと感じる。

2つ目は、大会に尽力されてきた方々へのリスペクトを語りつつも、それを応援という形に昇華させようとしていないこと。

普通は、というか考えられるありがちな展開としてはこうだ。

「この大会に、純粋な思いを、努力を注ぎ込んできた人たちがいます。だからこそ、皆さん、応援しましょう!」

偏見かもしれないが、日テレの某24時間番組の雰囲気にも同じものを感じる。だからこそ、日テレの藤井アナが、応援しましょうという訳ではない、と前置きした上で、私たちに対して『リスペクトを忘れないように』ということだけを促した事は、尚更嬉しかった。あー、この人は “わかってる” 人だな、というのが分かったから。

人は、信頼度メーターが上がるとき、何らかの快楽物質が出ていると思われる。それくらい、嬉しかった。

 

ところで、開会式の聖火リレーに出てきた長嶋茂雄さんについて、私は色々と考えを巡らせた。

正直、歩くシーンは、痛々しくて見てられなかった。歩けるのか?車椅子は、杖は?世界的な知名度はどのくらいあるのだろう?ただ演出として、団塊世代のスター代表として、感動を呼ぶために無理をさせられているのではないか?そんなの、リアルタイムで彼がスターだった頃を知っている世代にとっては、とてもツラい映像ではないのか、とも感じた。

ただ、聖火を次の走者に渡すとき、聖火越しに、目元がゆるむのが見えた。笑っていた。その笑顔が見られた時、私はどうしようもなく胸がキュッとなってしまった。感動と呼ぶにはあまりに複雑な思いが渦巻いた。

 

私は、無意識下で、長嶋茂雄という固有名詞の存在を、障害者という一般名詞の存在として、見ていた。そして、障害者が、その障害ゆえの苦労と闘う姿を、可哀想な様子だと思って見ていた。障害がなければ簡単にできる事を、障害があるがゆえに、時間がかかってしまう。私はそんな障害者のことを「可哀想だ」と思っていた。

だから、こういう発想になる。

「これは本当に長嶋茂雄の意思なのか?」

「感動を演出するために、利用されているのではないか?」

 だって、障害のせいでできない事があるのは可哀想で、可哀想な姿を健常者として眺めるのは、上から目線じゃないか。そんなの、長嶋茂雄がツラいだけじゃないか。

私はそんな風に考えていた。

だけど、聖火越しの笑顔を見たとき、ハッとした。だって、この人は、自ら望んでこの役割をやっているのかもしれない。自らの脚で歩くことを、自らの意思で決めたのかもしれない。そのためにずっとずっとリハビリをしていたのかもしれない。夢だったのかもしれない。だから、あんなに松井に背中を引っ張りあげられながらでしか歩いてられなくても、あんな姿でも、歩くことを選んだのかもしれない。

それは、何も可哀想な事ではない。むしろ、哀れむ事こそが最大の侮辱行為なのではないか。哀れむという事は、同列に見ていない、同じステージにいないことの証拠だから。自分が無意識的に優位性を抱いていて、長嶋茂雄氏のことを見下して、可哀想だと感じていた、という事がくっきりと分かってしまった。

だがしかし、もちろん、長嶋茂雄氏の出演が、本人の希望なのか、はたまた感動演出の一環としての無理強いなのか、その点については全く分からない。知る由としては、長嶋茂雄氏、本人の証言しかないだろう。

そうなると、現状、あの聖火越しの笑顔、嬉しそうな表情こそが、長嶋茂雄氏本人による証言に他ならない。氏はやりきって、満ち足りた表情でいた。

やはり、可哀想などと思うべきではないのだろう。

あれを演出だ、利用されている等と言うのは、そう憤慨する程にあなた方が大好きな長嶋茂雄氏について、あなた方こそが侮辱している事に他ならないのではないか。

本当のことは分からないし、もちろん、私以外の人の感情等も分かりっこないのだが、少なくとも私は、聖火越しの笑顔から、ただただ純粋な思いというのを見た、気がした。そしてそれこそが、本当のことなのだと思う。

 

障害者に限らずだが、他人の事を考えた時に、可哀想だ、と思うのは、思いやりではなく侮辱なのかもしれない。上から目線で、できないことを哀れんで、自分の優位性を確認しているだけなのかもしれない。だが、そこに思いやりが無いわけじゃない。ただあまりに雑な思いやりは、相手を傷つけうるし、自分の提示した思いやりが障壁になり、相手の顔を見ないまま、思いやりを渡した自分、に満足して終わってしまう。誰のための思いやりか?渡す事が目的になってはいないか、渡す前に、相手にとって本当にそれが必要なのか、よく考えてみるべきだ。

無意識的に持つ思いやり、感じる優位性、強者としての振る舞い、考え、すべてを意識下に置いた時、私には何ができるのか。どう変われるのか。

そんな事を考えた夜でした。多様性、というキーワードがある五輪は、そういう事を考えるのに相応しい舞台かもしれません。

 

何はともあれ、事件事故なく、開幕してよかった。冒頭でも書いたが、色々あるけど、純粋に楽しみだし、期待をしている。

あまおうがよかった

何かを好きになるということの素晴らしさは、自分の世界が広がることにある。

今日、初めてコンビニで野菜生活を買った。そこにかっちゃんがいたから...。

いつもはいちごヨーグルトを買っている。

 

オタクという生き物の素晴らしさは、自分の世界に意味付けをしてくれることにある。

なんとなく、電車に乗る前に飲み物を買う。飲みたいからではなくなんとなく、いつもそんな調子だが、今回は強い意志があった。私は、かっちゃんシールを剥がしたくって、これを買った。

2ポイントGETに加えて、野菜の栄養素まで摂れるらしい。なんと、副産物に健康がある!こんな素晴らしいことはない。

野菜生活を買って私はこれだけ文字を起こす気力を得た。まだ飲んでない。飲んだら健康にもなれる。すごい!

お金を払って気力を得るという行為がオタクの素晴らしさを象徴していると思う。オタクはパワーアップアイテムを自動供給する...。

 

ただ単に野菜生活を買っただけの話でした。

本当はあまおう味がよかったけどデクだった、残念。

朗読劇をやりたい

将来の夢は何だと聞かれると答えられない私だが、夢は何かと問われれば「自伝を出すこと」だった。出版するとかじゃなくて、ただ出せればよいと思っていた。ただ出すとは何かというのはあまりよく分かっていないが、とにかく、私という存在を誰かに知ってもらいたくて仕方がなかった。

ついさっき、自分の書いたブログを朗読劇として読んだという話を見た。なるほど、そういうのもいいなぁと思った。その人は、自分の書いた文章の事が好きらしい。私も同じだ。

誰かに知ってもらいたい、見てもらいたいが、それは私の事ではなく、私が生み出したものの事だ。「こういう文章を書いている私」と言えなくもないので、なんとも切り分けが難しいが、私はただ私を見てもらいたいのではなく、私の考え、内面を見てもらいたい。ただ目立って注目を浴びたいのではない。私の声に耳を傾けてくれる人に、私の考えを曝け出したい。誰かに、私の事を頭のてっぺんから爪の先まで分かって欲しい。それは決して分かり合いたいのではない。ただ私の事を分かって欲しい。超ストレートの承認欲求。

承認欲求といえば、現代には先の話で言うところの前者、ただ自分の事を見てもらいたい人、目立って注目を浴びたい人がとっても多いように思える。自分を見てもらうために、言葉があり考えがある。より話題になるために趣向を凝らす。そもそもSNSとは、そういうものなのだろう。私には...向いていない。自分の存在なんてどうだってよいが、自分のこの思いだけは残しておきたい。私がそう思った、考えた証として。誰かに読んでもらえたなら、もちろん光栄な事であるけれど、私にとっては読んでもらうことよりも書くことそのものの方が圧倒的に大切であり、意義がある。自分の中にいる人のかたちをしていない自分のかけらを、稚拙ながら形にして生命を吹き込むような、そんなスピリチュアルな気持ちさえある。気持ち悪いがほんとのことだから仕方がない。

それでも、もちろん誰かに見てもらえれば知ってもらえれば...という淡い感情は胸に存在していて、それを認めていないわけじゃなくて、それを露出すれば自分が誰かに期待してしまうことが怖いのだ。だから奥に隠す。隠しているつもりはないが、事実としてはそうだ。普通、こういうことは無自覚なんだろうけど、私は、作為にも不作為にも理由が欲しいと思ってしまうのです。知ってしまって、達観してしまって、嫌なやつだと思って、そういうことをここに書く。私が私と交わした対話の数々をこうして残していく、これからも多分続けていく。

自分のブログを朗読劇で披露したなんてのにいつまでも羨望しながら続けていく。

救いであるようにしか見えない

実際私は何にも知らなかった。結局誰かが死なないと変わらないのか。知る事も出来なかったのか。ずっとずっとずっとずっとこんな事ばかりじゃないか。戦えば骨を折り、黙れば居場所を失い、世間が忘れても執着は続き、疲弊する。不毛な世界で疲弊する。

きっとどこかに模範解答があってその通りにすれば良いという道標がある、が、それはとてもつまらないものであるからやってらんないよね

他人にどう思われてもいい人ばかりじゃないよ

他人にどう思われてもいい人は強い人だなんていう理論じゃなくて、ただ本当の自分を分かってくれる人がそばに居るからそう思える。野ブタ戸田恵梨香のメンタル設計でないとだめなんだよな。もし自分にそんな人がいなかったら?なんて、想像するだけで現世にとっととさよなら申したくなる。

死んでからあーだこーだ言われたってみんな考えたって検証したってもう死んでるんだからどうでもいい事だよね死んだ当人からしたら。かと言って、死んでも何も言われなかったり考えられなかったり検証されたりしないんなら、みんな知る事が出来なかったなら、それはそれで違うよな。だって死んでるんだから、大事なんだから、、だけどこれが悪かったとかこれのせいで死んだとかそんなのって本当かどうか分からないわけじゃん。そんな状態でみんな考えてますよこういう事しちゃいけませんよとかここぞとばかりな提言、問題提起、議論、帰着、、死が利用されている。死が無ければこんな議論生まれなかった。意義があったと言わざるを得ない、この状況、死は救いであるようにしか見えない。ぎりぎりのところで踏みとどまった人、耐えている人、戦っている人、強い人、、そういう人たちが現状をばからしく思ってしまわないかが非常に気がかりな今日この頃です。

どうするのが正しいんだろう。話題を見る度に感じるこの釈然としない思いを解消させるには、どうすればいいんだろう。どうなればいいんだろう。難しい、とても。少なくとも私の中での理想の回答はどこからも出ていないということ。

Please have a seat.

「国連の議長か!」っていうツッコミに対するこの切り返しが秒速で出来るあの人はスゴい。地頭の良さが無いと対応出来ないよな...と感じてかなりときめいた。

はあ。嵐が活動休止したって別に構わないんだけど、嵐の番組が無くなるのはツラいなあ。と、最近思う。もし何かの間違いで私がテレビスターになったとしたら、東京フレンドパークで商品の大型家電を懸けてダーツして、VS嵐でキッキングスナイパーやるんだ。あと、オールスター感謝祭スタンダップするんだ...。どれか叶うかな。スタンダップ有力かな。

VS嵐、無くなって欲しくないな。私のように、特にファンという訳ではないが、その存在がなんとなく生活の一部に組み込まれてしまっているっていう人は、結構いるんじゃないだろうか。それって何気に凄いことだよな、と思う。

思えばSMAP×SMAPもそんな感情で見てたかも。好きだったものが、まだ好きなのに、どうにもならぬ事情で無くなっていくあのツラさ。視聴習慣ってのは、舐めちゃいけないな。おかげで月曜22時は未だにぽっかり穴が空いてる気分だよ。この時間はこれ、これはこの時間、そういうのって規則正しい生活にはとっても大切で偉大なもんなんだよ。聞いてますか、テレビ朝日。お前の話だぞ。ニチアサ、ドラえもん、そういうことだぞ。陸海空もな。

「美談にしてはいけない」と言う人たち

去年の夏

書きっぱなしで置き去りにされていた下書きがいたので、成仏させてあげたいと思います。夏と私と甲子園とこじらせ。

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一人で投げ抜きました、9人だけでずっと戦ってきました、15歳で親元を離れて暮らしてきました、スマホも禁止して毎日ひたすら練習してきました。異常だ。全て異常だから、凄いんじゃないか。自分がその歳の時には何をしていたんだろう、そんな事をつい考えてしまうような。自分には到底出来ないような事を成し遂げている。結果を出し、努力をしている学生の姿は、異常だからこそ尊い

「美談にしてはいけない」と言う人たち。一人で投げ抜いてきた、足が痛くても立ち続けてきた、毎日何時間も練習に打ち込んだ。これらは作り話ではなく事実だ。たかが未成年の学生のその人生に結びついた異常な事実。「普通」の私にはそれを見守ること、見せつけられることしかできない。たかが未成年の学生がその人生を賭けていて、その姿を100万人が見て、感動して、熱くなっている。こんな異常なことはない。

異常なことは無くすべきなのか。

酷使して才能を潰してしまうのか、壊してしまうのか、そう心配するのは真っ当な事だと思う。怪我をしてからでは遅い事だってある。後の野球人生を考えるなら...と思うのは分かる。分かるが、果たしてその「後の野球人生」が今頑張っている彼らにとって一番優先すべき事なのだろうか?もちろん今後の活躍を願うのがファンの心理。でもその過程で「たかが高校野球で...」という風に考えてはいないか。

...まだまだ将来がある、たかが高校野球で君の才能を潰されていいのか?投げさせられて、可哀想。本人は無理をしてしまうのだから、周りの大人がコントロールしてあげないといけない。...

もちろん休養日を含む日程の問題、猛暑の野外で開催することの問題など、運営側に改善の余地はある。そこに対して、もう少しどうにかならないのかという議論はなされるべきであると思う。だが、プレーヤーそのものに向けられる「〇〇すべきではない」「もっと△△すべきだ」という見解はどうだろう。先にも述べたが、今年は本当に何かと「美談にしてはいけない」という論調が見受けられた。しかし、多くの場合でそれは、彼らに対して余りにも無礼な外野の声でしかないのではないか?と私は思うのです。

少し話は逸れるけれど、美談にしてはだめだと諭す人を見る度に、私は「学校だけが社会じゃない」と、いじめに苦しむ子どもへよく向けられる言葉を思い出す。イヤなら行かない選択肢もあるし、社会は広いわけで、たかが学校で追い詰められることはないよという優しい言葉だ。だけど、こう言える人は完全に「学校」という世界を遠く離れた場所から俯瞰している人だ。実際にそうなのだが、いざ学生の立場とすれば、否応無く学校は現在属する「社会」の姿であり、簡単に逃げられるものではないのである。現在その立場にいる人にとってはそれが全てであるということがたくさんある。外から見れば非常に小さい世界でも、その渦中にいる人にとってはとても大きな世界だったりする。

何が言いたいかというと、それが「たかが」と言えるものかどうかというのは、外野からは分からないということだ。事実として客観視してみれば、正論としての答はあるかもしれない。けれど、正論が正しいかどうかは別の話である。正と悪は絶対的かもしれないが、正しさは相対的なのだと思う。

「美談にしてはいけない」と言う人は総じて、自分の価値観で物事を推し量りがちだ。自分のものさしで測り考え「たかが」と判断する。自分の世界からどれほど掛け離れていようとも、距離があろうとも、その縮尺などお構い無しに自分の手にあるものさしで測る。遠近感がズレているのだから、相応の気遣いのつもりでも、過剰なお節介になる。...という構図ではないだろうか。厄介なのは、それがその人の思いやりから生まれているということだ。正論なのだ。だからこそ、「善意の無関係な人たち」によって拡散されてしまって、手に負えないほど過剰になってしまう。

私は、スポーツなどの真剣勝負の場では、その戦いの中にいる者にしか分からない思い、覚悟、決意などがあると思っている。ある種の「聖域」だ。そんな神聖な場に、外野の人間が正論を持って臨もうだなんて、言語道断だ。異常かもしれないが、そこにどんなドラマがあるのか、外野は知る由もない。異常であることが悪なのか、判断するに至らぬ立場に過ぎない。だからこそ尊い。今年の甲子園はとびきり神聖に思われた。冷静な見地で以て正論で異常を正そうとするのは、その神聖さに対するある種の「畏怖」が欠落しているのではないか。つまり、野暮なのだ。自分とは違う遥かなステージにいるプレーヤー達に、自分の世界の常識を当てはめて、鬼の首を取ったように高らかに「異常だ」と声を上げ正そうとするなど、正論であっても不適切である。

私がそのうち、美談にしてはいけないという人たちの標的になるだろうと考えたもの。「このシーン、僅か3秒間を描くのに、12時間もかかりました。驚く程細かい所までペンが入っているんですよ」→12時間?違法労働。凄いですね、とか感心してないで、アニメ業界の過酷すぎる労働環境を見直すべきだ。過度なクオリティの追求により、アシスタントも休むことができない、非常にブラックな労働環境である。そもそも、今の時代、手描きなんておかしい。PC作業にして効率化すべき。わざわざ手間のかかる手段を使っていて「こんなに時間かけました」なんて、誇れるものでは無い。こだわり?それを許してきたから今の労働環境があるんだよ。慣れって怖いよ。社畜養成。こだわって時間をかけたなんてこと、美談にしてはいけない。

なーんちゃって事を本当に言い出しちゃう無粋な人たちは、少なからず居るのが実情で、善意の押し売りって怖いよな。あ、あと今思ったけど「無粋」っていい言葉だな。善とか悪とかそんなんじゃなくて、正論とか間違いとかそんなんでもなくて、粋かどうかって事は最上のスタンダードなんだよな。無粋な人たちが増えたっていう話があって「確かにそうかもな」って思った。

気になると進めない

邦楽ロック好きで音楽の趣味が割と合いそうな同期と某ヤバいなんとか屋さんの話になり、全然聴かない私はやべえと思いつつ「ああ〜最近人気だよね〜」という風にあたかも知ってますよ(ただし好きとは言っていない)というスタンスで立ち向かったのだがそこで「俺全然好きじゃないんだよね」という予想外の一言。めちゃくちゃ歓喜した。

「私もだわ〜しゃっしゃっ!ってやつとかカラオケでめっちゃ聞くからそれだけ分かるわ〜(笑)」「あ〜俺もだわ〜(笑)」ってな感じで互いの“音楽好きだが一般的な音楽好きとは相容れない要素があるせいで迂闊に音楽好きっていう奴と話が出来ない病”の症状を共有。だが問題はその後で「あれってさ、パクリなんでしょ?」と同期。え?パクリ?パクリと言っちゃう?パクリ=悪、だからあいつらダメなやつ、勿論同期が言いたかったことはこういう事ではないと思うが私はとっさにこの方程式が浮かび、この方程式で理論武装することは私の中の拘りが許せなかったので、私はここに同調することが出来ず、かと言って私は某ヤバいなんとか屋さんのことが好きではないのでそれは違うんじゃないかな〜とも言えず、かと言って原曲聴いたことないレベルで詳しくもないのでひょっとしてガチでオマージュとかじゃないレベルのセンスでパクってるのかもしれないという可能性は捨てきれず、と、ここまでのことを実にコンマ2秒くらいでぐるぐると思い巡らせ、私は思考停止した。「ああ〜そうなのかな〜?わかんないや〜(笑)」って感じに返してしまってもう彼らの話はいいやとなってしまった。

私は何か「ん?」と気になることがあるとそこから先に進めない。例えばそれが先輩だったり上司だったり、立場が異なる人だったらそこまで気にならないのだけど、同期とか、所謂「部下」「後輩」としてではなく「素の私」として誰かとコミュニケイトする際にはもう、とにかく気になる。全ての道で自分が納得する理論の上を歩きたいし、歩かなければならない。つくづく自分は面倒臭い人間だと思うが、私は結局のところ自分のその点に誇りを持っていて、どんなにしょうもないことでもあれこれと考え全ての工程に持論ありという自分がめちゃくちゃ好き。だから、そうでない人のことを私は軽視してしまいがちで、大学生みたいな付和雷同的なノリや、高校生みたいな真面目にやるのマジダサい的なスタンスは心底軽蔑している。逆に、私と似た拘り強めの人にはとっても魅力を感じてしまって割と簡単にコロッと好きになる。

誰とでも仲良くなれる人は勿論素晴らしいと思う。でも私は今後もこのスタンスで人付き合いをしていく。たぶん。

そして某なんとか屋さんバンドは、パクリじゃなくてオマージュであって、あれはあれで名曲だと思っている。あれなんだっけ確かLMFAOかなんかの...軽薄なDJに気をつけろ(参:オールナイトニッポンR)で松永さんが紹介してたアレ...。最近また聴き返してるANNR。面白いよね。やっぱりラジオは永遠の友...。で、パクリとオマージュは全然違うものなわけだけど、何が違うの?って言われるとそれはうまく伝えられない。だけど、決定的に違う。多分わからない人には理解出来ないとも思う。それは映画監督を目当てで映画が観られるかどうかとかと似てる感覚かもしれない。で、まあ某バンドはただ私の好みではないというだけの話。あ、あとそれを好きと言ってる音楽好きの人たちが高確率で私の苦手なタイプであるというのが挙げられるということです。私は“音楽好きだが一般的な音楽好きとは相容れない要素があるせいで迂闊に音楽好きっていう奴と話が出来ない病”なので、あしからず。